イラコン用イラストアップしました。小松姫です。
六文銭と立ち葵の家紋を同時につけているのがミソです。
肖像画だと三つ葉葵になってるけど立ち葵にしました。
でも嫁ぎ先の家紋だけじゃなくて許されたのかな?
小松姫がごり押しした気がするな。

小松姫1573年~1620年 本多忠勝の長女にして、徳川家康の養女、
そしてあの真田幸村が義理の弟という、何とも、回りには誰でも知っている
戦国武将の有名人の名がズラリ。
この時代に生きた女性として、まさに“女傑”の名がふさわしい女性だった様です。
色々とエピソードがありますね。こちらに良いも悪いも載ってます。
戦国ちょっといい話・悪い話イメージとしてはもっと怖い?イメージの方が合う気がしますが
ここはちょっとやさしい感じで描きました。
かなりの美人だったとの話もありますので、そちらに力を入れて・・・。
ひとつわからないのは、マイナーでローカルな話ですが、
小松姫は本多忠勝が移封され、大多喜に来た時に一緒に大多喜の地を踏んだのでしょうか?
資料によると、真田信之に嫁いだのが1586年、1589年、1590年と諸説ある様ですが
忠勝公が移封され大多喜に来たのは天正18年、1590年なので、どうなんでしょう?
嫁いだのは三河から?大多喜から?どなたかご存知の方、教えてください。
こういう話もありました。民話ですが・・・。
(すみません。ジャンヌさんちょっとお借りしました)
コメント欄にあります。
大多喜観光協会 サポーター*******************************
---こまつ姫とかぐやご飯(大多喜町の民話)---
大多喜城主本多忠勝様に一人の姫君がいました。
名前をこまつといい忠勝様はたいそう可愛がっていました。
利発な姫君でみんなからたいそう可愛がられすくすく育っていきました。
いつの頃からか「えーい」・「やあー」とお城の庭から元気な
かわいい声が聞こえてくるようになり
「おお、こまつ姫様の声がするぞ。」
「姫様が剣術好きだとはなあ。」
「あの声を聞くと、今日も元気でいるなと安心する。」
と城下の人々はこまつ姫様の話でもちきりでした。
ある日のことです。城下に遊びに出かけた姫様があぜ道を歩いていると
「たいへんだ、狂いジシだ。」
「逃げろ、逃げろ。」
大声を出しながら走ってくる者がいました。大きな猪がものすごい勢いで
駆けてくるではありませんか。
「だれか、こどもを。こどもを。」
畦には竹篭に入った赤ん坊が見えました。
姫は赤ん坊を抱えると母に手渡し、腰の刀を振り上げると猪に一太刀あびせました。
猪は叫び声を上げると近くの竹やぶに逃げ込みました。
姫様もその後を追って竹やぶに飛び込み猪をわなに追い込み、みごとに捕まえました。
姫様は、
「もう大丈夫。心配しなくてもいいよ。」
と村人に優しく声をかけました。
その時竹やぶごしに、姫様に日の光があたり、きらきら輝いて見えました。
「なんてきれいなんだ。本当に輝くように美しいとはこのことだ。」
城下の人々は、この日よりこまつ姫様のことを語り合う時、「かがやく姫様」と
呼ぶようになりました。そして、「かがやく姫様」が人々の口から口へと
語られるうちに、「かぐや姫」と呼ばれるようになったのです。
こまつ姫様は城下の人々から慕われ、信州上田の真田信幸(幸村の兄)との結婚が
決まり大多喜を離れる時には、城下の人々が見送ったということです。
それからここ大多喜では、こまつ姫様のことを忘れないように竹の子をつかった
炊き込みご飯を「かぐやご飯」と呼ぶようになりました。
おしまい
http://www.pref.chiba.lg.jp/syozoku/e_bunka/bunkajyouhou/minwa/ootaki24.html
(浅井清恵 ふるさと民話さんぽ「広報おおたきNo.427」より)
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ここでもイノシシ退治で女傑ぶりを発揮していますね。
もののけ姫の少女サンがイメージされたのは私だけでしょうか。
この話は確かに大多喜にいたとき広報誌で読みました。
へえーと思いましたが、あとで調べると年代が合わない。
ホントのところはどうなんでしょう?
どうでもいい人には、どうでもいいことですが(多分ほとんどの人)・・・。
小松姫は大多喜にいたかどうか?ただ知りたいんです。
さて、そんな小松姫もいたかもしれない大多喜城をめぐる、バスツアーが7/2(土)にあります。
企画は戦国デザインブランドのパイオニア「もののふ」さんです。
当日は大多喜だけじゃない、北条氏、里見氏の城趾もめぐります。
北条、里見ファンの方、お城ファンの方、ぜひどうぞ!
詳しくは、こちらでどうぞ。
第八回もののふ戦国バスツアー「房総の城、本多忠勝公の居城をゆく」
鍋之助(10/07)
ジャンヌ(09/14)